2013/12/07

佐藤亜紀『醜聞の作法』

ディドロの『ラモーの甥』を読んだことがあれば、『醜聞の作法』の冒頭がそれを踏まえたものだということはすぐにわかるだろう。
空が晴れていようと、いやな天気だろうと、夕方の五時頃パレ・ロワイヤルの公園へ散歩に出かけるのがわたしの習慣だ。いつもひとりぼっちで、ダルジャンソンのベンチに腰をかけて、ぼんやり考えこんでいる男がいたら、それはわたしだ。わたしは、政治について、恋愛について、趣味について、さては哲学について、自分を相手に話をしているのだ。わたしは自分の精神を放蕩にふけらせておく。よく、フォワの並木路で、だらしのない若者たちが、気のぬけたような様子の、笑顔を作った、眼の敏い、しゃくり鼻の娼婦の後をつけて、別のが来ればそのほうに行き、どれもこれもの尻を追いかけて、さてどの一人にも執着しない有様を見かけるが、そんなぐあいにわたしは、賢明なものだろうが馬鹿げていようが、どれでも手当たり次第頭に浮かぶ観念を精神に勝手に追いかけさせておく。わたしの思索とはつまりわたしの娼婦なのだ。(P5『ラモーの甥』)
天気のいい日も、悪い日も、五時になると私はパレ・ロワイヤルに出掛けます。フォワの回廊を気忙しく行ったり来たりする男を見掛けたら、この私だと思っていただいて間違いありません。娘たちの思わせぶりな態度、笑みを浮かべた可愛い顔、抜け目ない目付きや小生意気な鼻を目に付く端から追い回し、さりとてどれに執着することもない――ちょうどアルジャンソンのベンチにぼんやり腰を下ろした男が、政治について、愛について、趣味判断について、哲学について、最初に浮かんだ思い付きの後を、馬鹿げていようと冴えていようと手当たり次第追い回すに任せて暇を潰すように。つまりああした娘たちは、私の思想という訳です。(P5『醜聞の作法』) 

『ラモーの甥』では思索がわたしの娼婦であるが、『醜聞の作法』では娘たちが私の思想である、というふうにでんぐり返っていることに注意しよう。

語り手である「私」の設定もでんぐり返っている。『ラモーの甥』は哲学者である「私」と道化(幇間と言ってもいいだろう)である「彼」――ラモーの甥――の対話小説である。哲学者である「私」は「彼」にこう言われるような格好をしている。
彼――もしそうだったら、あんたは、そんな粗末な服やそんな荒い地の胴衣を着たり、そんな毛の靴下やそんな厚ぼったい靴をはいたり、そんな古風な鬘をつけたりしてはいないですよ。(P137『ラモーの甥』)
一方、『醜聞の作法』の語り手である「私」――B***――はというと。
 店の者が灯を点しに来るのをやり過ごして――中はそのくらい暗くなっていたからですが――私は探し物をするふりで、隠しの中のものを順に、卓子の上に並べました。まず彼の目に留まったのは、奥様が呆れておられたあの嗅ぎ煙草入れです。ルフォンの顔には一目瞭然の詮索好きな表情が浮かんだものの、一言も訊ねようとはしません。それから麗々しく頭文字を縫い取った白麻の半巾、それから、そう、何でしたでしょう? もし卓子が我々の間になければ、真新しい絹の靴下と銀の留め金を輝かせた新調の靴も見えたでしょうが、やむなく、こればかりはいつもと同じちびた黒鉛やら手帳やらを並べ、最後に奥様からお預かりした細密肖像画を取り出したのです。(P14『醜聞の作法』)

『醜聞の作法』の「私」は、弁護士であるルフォンの元同僚であって、哲学者ではない。哲学者でないのは肩書だけではない。その服装も見事に『ラモーの甥』の哲学者と対照をなしている。そしてその服装は道化――『ラモーの甥』では「私」でなく「彼」の役どころだ――になることで手に入れることができたのである。
ただであれやこれやが手に入った訳じゃない。御用を務めるから手に入るのさ。或いは、御用を務める約束をしたから手に入るのさ。そんな御用が回ってくるという意味じゃ、大層幸運だね。(P16『醜聞の作法』)
『ラモーの甥』において「彼」は道化として生きることで旦那(パトロン)から食い扶持を得ている。が、そのことで「彼」は旦那に恩義を感じはしない。
彼――なあに! 後悔なんかするもんですか! 「一人の泥棒がもう一人の泥棒の物を盗めば、悪魔が笑う」って云いまさ。子供の親達はどうして手に入れたか知らないが、ありあまるほど財産をもっていました。奴らは宮廷人とか、金融家とか、大商人とか、銀行家とか、事業家とかなどでした。わしは――わしやわしと同じように奴らに使われていた連中は――奴らの取りすぎの払い戻しを手つだってやったんでさ。自然界じゃ、すべての種が互いに食いあっているし、社会じゃすべての身分が食いあっています。われわれは法律が手を貸さないでもお互いに罰を喰わせあっていまさあ。昔はデシャン嬢が、こんにちではギマール嬢が、金融家から君主の仇を取っていますよ。それから、その金融家の仇をデシャン嬢から取るのは、婦人服の女仕立屋、宝石商、室内装飾屋、裁縫女、詐欺師、小間使、料理人、馬具屋なんです。(P54『ラモーの甥』)
「こんなぐあいに自然はわしをこしらえ、ほかの首振りどものそばへ放り出したんです。そのうちの或る連中は、皺だらけの太鼓腹をし、猪頸で、眼はぐりぐりと飛び出し、卒中病みでした。ほかの連中は頸がかしいでいました。中には、ひからびて、眼はぎょろりとし、鉤鼻の連中もありました。みんな、わしを見て笑いこけました。そこで、わしは早速、両のこぶしを両脇に当てました。そして奴らを見て笑いこけたもんです。だって、馬鹿と道化はお互いに相手を楽しませるものですからね。奴らは互いに相手をさがし、互にひきあうんです。
 わしがこの連中のところへやってきた時、もし、『馬鹿どもの金は才人たちの財産である』という格言がちゃんと出来てるのが見つからなかったとしたら、わしのおかげでそれができたことになるところだったんです。わしは自然がわしのための遺留分を首振りどもの財布の中へ入れておいてくれたことを感づきましたね。そこでそいつを取り返すための無数の方法を考えだしたわけでさあ。(P140『ラモーの甥』)
道化と旦那の関係は、被保護者と保護者の関係ではない。互いに食いあう敵対者なのである。そして道化は旦那の懐から幾ら掠め取ろうが良心を痛めることはない。自分の取り分を取り返しているだけなのだから。『ラモーの甥』において道化と旦那の関係はこのようなものなのである。

さて、『醜聞の作法』において「私」がでんぐり返って哲学者から道化になっているのだとしたら、「彼」――ルフォン――もまたでんぐり返っているのだろうか。例えば、道化から哲学者へ、と。だがそうではないのである。
彼 御用のむきは何なりと。私は一個の道化に過ぎません。(P185『醜聞の作法』)
ルフォンはパンフレットによって噂をばらまき、また結果としてではあるが、若い二人の仲を取り持つのである。これは『ラモーの甥』における道化の特徴とも合致する。
なにしろわしらはみんな途方もない噂の行商人ですからね。(P49『ラモーの甥』)
お前はほかの者のように、あの若者をけしかけてお嬢さんに話しかけさせたり、お嬢さんを説きふせて若者の言葉を聞かせたりすることはできないのか。(P32『ラモーの甥』)
ルフォンもまた、道化だったのである。だが最初から完全に道化だったという訳でもないのだ。

『ラモーの甥』の「彼」は、伯父の大ラモーような音楽の才がなかった。才を欠いた音楽家はお偉ら方に仕える道化に過ぎない。
私――そういう勇敢で賢明な見解に従っても、やはり、僕はあくまでも、息子さんは音楽家にするのがいいと思うね。それ以上に早くお偉ら方に近づいて、彼らの悪徳に奉仕し、自分の悪徳を利用する手段は、ほかになかろうと思うね。(P133『ラモーの甥』)
だから「彼」が音楽に習熟するということは道化になるということであった。
彼――なあに、心配するこたあありません。これは、こうやってもいいようになってるんです。十年前から、わしはこれとはちがったふうにひどく取り扱ってきました。なかなか言うことをきかなかったですが、とにかくこいつらはどうしてもそれに慣れる必要がありました。つまり鍵の上に乗っかったり絃の上をちょこちょこ走ったりすることを覚えなくちゃならなかったんです。それが今じゃもう、うまくゆきます。ええ、うまくゆきます。(P38『ラモーの甥』) 
そしてルフォンもまた、納屋の屋根の上に乗っかって、「隣家との境界の塀に飛び降り、そのまま表通りまで塀の上を走る」(P131『醜聞の作法』)のである。まるで猫のように爪先立ちで。きっとちょこちょこと擬音がしたことであろう。

ルフォンが完全な道化――旦那の敵対者――へと姿を変えたのはこの瞬間である。このルフォンの変貌に姑であるマゼリは呆れる。
マゼリは呆れておりました。ルフォンが塀によじ登ったり、納屋の屋根から飛び降りたり、塀の上を走ったりするところなぞ想像したこともなかった、と言うのです。
マゼリ 野育ちなら兎も角さ。
私 あいつはよくよく考えてみると田舎育ちなんだよ。
マゼリ そうだっけ? 町っ子みたいな顔して。図々しいねえ。(P132、133『醜聞の作法』)
ルフォンが弁護士になった経緯を思い出そう。
生まれてから十五年ばかりを、ジャンリスからほど遠からぬ村の宿屋で育った男をご想像下さい。あの辺りで宿屋と言えば、必ずしもつましい暮しとは限りません――そう、鍛冶屋とか、薬屋とかが、田舎では充分に素封家で通るように。近郷近在では一目置かれるに足る財産と地位。そういう家にちょっとばかりお利口な、子供の時分には目から鼻へ抜けんばかりの三男坊が生まれ落ちる。すると、よちよち歩き始めたばかりの目の前に、立派なお馬車から美しい装束で身分の高いお客が次々に降り立ちます。
そこで、第一の悲喜劇が生まれます。殻を突き破ったばかりの小鴨の雛の前で羽根箒を振って御覧なさい。雛はたちどころに羽根箒を親と思い込んで付いて歩くでしょう。第一この羽根箒は――失礼――着るものも違えば立居振舞も違う。話す言葉も違えば話すことも違う。実の親鴨なぞ最早目に入らなくなっても、それは無理からぬ話でしょう。少し大きくなると御婦人方はこの子供を面白がり、殿方も暇を潰すために声を掛けてやる。子供はすっかり有頂天になり、想像力を専らそちらの方向に広げ始めます――大きくなったらこういう人たちの仲間入りをしよう、こういう人たちから面白い奴、気の利いた奴、頭のいい奴と評判を取ろう、と。その瞬間、彼の頭の中では、田舎の宿屋の食堂は美しく才気溢れる貴婦人のサロンに早変わり、彼は小洒落た身形で警句のひとつも吐いては、居並ぶ貴顕たちの喝采と、御婦人の賞賛の眼差しを恣にしているのです。
親は別段止もしません。何しろ三男坊では宿屋に置いておく訳にも行かない。何か手に職を付けさせる――それもできるだけ実入りのいい職を付けさせる――なろうことなら幾らか「家名」を(そう、彼らの「家名」も一応は「家名」です)上げるような職を付けさせる。聖職者か、弁護士か、哲学者か。この頃では「哲学」の名声が国の隅々まで轟きわたっているので、聖職者は少しく分が悪い。どうにか田舎司祭くらいにはなりおおせた親戚も、ぱっとしないね、とかぶりを振る。だが哲学者は? ダランベール――平民の出だそうじゃないか。ディドロ――平民の出だそうじゃないか。ルソー――平民の出だそうじゃないか。しかしいきなり子供を「哲学者」に仕立て上げる方策が見付からなかったので、両親は彼を弁護士にすることに決めたのです。(P6、7『醜聞の作法』)
田舎の平民であったルフォンは宿屋を訪れる町の貴族に憧れ、自分もその仲間に入ろうと思ったのである。町の貴族は敵対者ではなく、田舎の平民である自分も仲間入りする可能性が見えていた将来の仲間であった。ルフォンは物語の最初から道化――旦那の敵対者――ではなかった。

ではいつから旦那の仲間入りを諦めて道化になることを決めたのか。
ルフォンは久々の町がすっかり変わって見えるのに驚いたようです。何、見え方が変わったに過ぎず、いつも起こっていたことが起こっているだけなのですが、レジャンスで最初に例の冊子を人が手にしているのを見た時には、平静を保つのも辛いと言わんばかりに慌ててその場を離れようとしました。(P77『醜聞の作法』)

噂が広まるにつれて、町――ルフォンにとって田舎が平民の象徴であるなら、町は貴族の象徴である――の見え方(在り方ではない)は変わっていったのである。そして妻のアンネットの失踪という出来事が起こる。
 ルフォンが語ったのは、次の様な次第でした――前夜、彼が家に戻って来ても、もう宵の口なのに、家には灯が灯っていなかったのです。確かに日の長い時期ではありますが、ルフォンの家は路地に面しているので、灯が必要になる時刻は冬と大差ありません。そこでルフォンは不安に感じながら、階段を上がり、鍵を開けて中に入りました。 
 家には誰一人おりませんでした。(P89『醜聞の作法』)
アンネットは旦那に仲間入りする希望をルフォンと共有している唯一の人物である。
だってお母さん、この人は弁護士になるのよ。弁護士だって! そんなものの女房にするために娘を育てた覚えはないよ。お母さん、あたしはね、お母さんみたいになる気はないの。娘を帽子屋の店先で働かせたりしたくないの。ちゃんとした弁護士の奥様になるのよ。子供たちはきっともっと偉くなれるでしょう。 (P9『醜聞の作法』)
そのアンネットが失踪したのだ。 ルフォンに塀の上を走らせたのは追手による肉体的な危険だが、唯一の理解者であるアンネットが失踪した時点で既に、ルフォンは旦那に仲間入りする道を捨てていた、と言ってもいいだろう。遅かれ早かれルフォンは塀の上を走ったのだ。

そして完全に道化になったルフォンのねぐらは、『ラモーの甥』の「彼」と同じように厩になる。厩は道化のねぐらだからだ。
そんな時彼は、友だちの辻馬車の御者か、または誰かお偉がたの御者に頼みこむ。するとこの御者が彼にその馬どもの傍の藁の上に寝床をくれてやる。朝になっても、彼は昨夜の蒲団の一部分を髪にくっつけている。(P7『ラモーの甥』)
『ラモーの甥』は「私」と「彼」であった。しかし『醜聞の作法』では「私」と「彼」はどちらも道化である。「私」と「彼」ではなく、「我ら」の関係だ。ともに「彼ら」に対する関係だ。

ルフォンが侯爵の火消しを引き受ける際に報酬を要求するのは当然であろう。「彼ら」は「我ら」の敵なのだから。
――お前は我々のことには、あまり通じておらんようだな。
 ルフォンは冊子を拾って頭を上げました。宮廷風の踵の高い靴が床を鳴らす音がして、牛でも絞め殺せそうなほどがっしりした背の高い男が、その蠟燭の光の中に現れました。ルフォンは暫く黙り込んでおりましたが、ふと、もう一度天井に描かれた絵に目を遣ると、こう答えました。
――おそらくは。この先も通じることはないと思われます。
 その声に、一抹の絶望を感じ取ったのは私だけでしょう。私もまた同じでございました。こんな連中を相手にしたら、いともたやすく犬の餌にされてしまう、と考えたのです。彼らは毛程の後悔も感じますまい。彼らが人間であるとしたら私は人間ではありませんし、私が人間であるとしたら彼らは人間ではないからです。(P176『醜聞の作法』)
「彼ら」は和解不能な敵なのだ。敵である以上、「我ら」は「彼ら」のために無償で何かしてやる義理などない。「彼ら」が「我ら」のために何かしてやる義理などないように。敵からは取れる時に取れるだけ取っておけ、それが道化の生き方である。
彼 あの奇跡的なまでに淫らがましいシテールは、未来永劫、僕のものにはならないし、君のものにもならない。たかが絵にすぎないとしてもね。あれを目にした途端に思ったよ――僕や君は、彼らが本当とも思わない世界からかどわかされて、半ばは暇潰しに過ぎない諍いに大真面目で巻き込まれたのだ、とね。五千リーヴルなぞ彼らには端金だ。一万と言っても、あの連中は払うだろう。だがどうしてみようがある。どうにもならんさ。彼らが目の前に開いて導き入れてくれた風景を口を開けて眺めながら、それが消え去ってしまう前に、御用を承って小銭をかき集めるのが精々だ。(P207『醜聞の作法』)
『醜聞の作法』の「私」は哲学者ではなかった。ではこの作品に哲学者は出てこないのであろうか。出てくる。B***を厩のルフォンのところへ案内する男がそれだ。彼はこう語る。
男 その原因と結果が逆なんですよ。信心なんざ糞だと誰が言ったって、何が変わる訳でもなかったじゃないですか。ああまた不信心者が、で終わりだったでしょうが。お偉方はろくでなし揃いだと、この世の始めから、言わない奴が一人でもいましたか。事実を言ってるだけだったじゃありませんか。そんなことで何かが変わるとしたら、それはとっくに変わってたんです。今や誰もが大きな声で好きなことを言い出した。おっそろしいことになりますよ。王様はぼんくらで、大臣どもは盗っ人で、この国は腐ってる、もう駄目だ、ってそのうちに皆が当たり前に言うようになります。何もかもでんぐり返してやるって言ったとしても、そいつは結果の方だ。でんぐり返しが始まるから、そんな戯言も思い付き放題言い放題やり放題になるんですよ。真面目腐った連中が、ここを直せば保つあそこを正せば保つ、ってどんなに悪あがきしたって、足元はどんどん沈んで、私らは宙に浮いたっぱなしになります。誹謗文がそこら中に垂れ流されて、それこそ王妃様が誰ぞを誑かして首が折れちまいそうな首飾りを巻き上げたとでも言い立てれば、皆がそれを信じるでしょうな。もう事実かどうかなんざどうでもいい。足元がどんどん崩れて体が宙に浮いていれば、事実なんてものは今そこにあってももう見えもしなけりゃ確かめられもしない。それよりは囀ることですよ、囀ってさえずってそれで我を忘れられればいいんです。倒れる巨木に巣食ってる鳥が一斉に囀り出すみたいにね。(P171、172『醜聞の作法』) 
やんごとない方々の噂話が広まるから、世界がでんぐり返るのではない。既に世界がでんぐり返っているから、やんごとない方々の噂話が広まるのだ。戯言が言い放題になって、誹謗文が垂れ流されるのは、世界がでんぐり返ったサインなのである。

『醜聞の作法』は、冒頭から既に、でんぐり返っていた。だからルフォンたちが仕掛けた炎上騒ぎがあれほど上手く行ったのだ。

『醜聞の作法』が扱っているカフェ・パンフレット文化は、現代のインターネットにおける言説空間に非常に似通っている。ここにこの作品の今日性を見出す読者も多いだろう。だがそれは原因ではなく結果なのだ。『醜聞の作法』の今日性は、世界が既にでんぐり返った後だということ、世界が「我ら」と「彼ら」に決定的にわかたれた後だ、というところにある。

お偉方を散々に扱き下ろすのは、「彼ら」が敵であるからだ。そこに正義はない。「彼ら」を引きずり下ろしたいという憎悪しかないのである。
これが今パリで――いいえ、フランス全土で最新流行の訴訟の手管です。小間使いが盗みの罪で主人に訴えられたら。大丈夫です。金持ちの狒々爺が意のままにならない小娘に業を煮やして訴えたのだ、と書き立てれば、噂どころか話を書いた小冊子がフランス中を駆け巡り、主は訴訟を取り下げざるを得なくなります。誰だって、怒りに燃える野次馬に家を叩き壊されたくないからです。捨てられかけた大貴族の囲われ者が、愛人の筆跡を真似て手形を偽造したら? 心配することはありません。老いたる情婦を監獄か、あわよくば新大陸に片付けようとしたのだ、と非難すれば、共犯者まで裁判官の温情に預かることができます。誰だってお偉方が一泡吹かせられるのは愉快ですからね。(P25『醜聞の作法』)
新自由主義による格差社会に生きる我らは、『醜聞の作法』の世界――「我ら」対「彼ら」――の住人である。我らの「十年後」には何が起きるのであろうか。
彼 暴動でも起こそうというのかい。 
私 暴動? とんでもない。起こるなら、それは文字通りの回天だろうよ。(P87『醜聞の作法』)


引用は下記によった。

佐藤亜紀『醜聞の作法』(講談社、2010)
ディドロ『ラモーの甥』(本田喜代治・平岡昇訳、岩波文庫、1964)