2013/05/29

佐藤亜紀『金の仔牛』

ジョン・ゲイの『乞食オペラ』では、薄い皮膜の下にあるものがこれ見よがしに剥き出しにされる瞬間がある。最後の乞食の口上だ。
この芝居全体をご覧になって、貴君もお気づきだと思うんだが、当節は上層と下層の人間の行状が互いにすこぶる似通っているんだよ。目下人々が耽っている種々の悪徳にしたって、お歴々が追い剥ぎの真似をしているのか、それとも追い剥ぎがお歴々の真似をしているのか、区別ができかねるほどさ。芝居の結末が当初私の意図したままだったら、素晴らしい教訓を観客に伝えられたと思うんだがね。つまり、下層の人間も金持ち連中と同様に悪徳に染まっていて、その結果立派に罰を受けているってことをね。(P140、141『乞食オペラ』)
『乞食オペラ』は下層の追い剥ぎたちを描いたバラッド・オペラだが、当時の観客には、それが実は上層の人間たち――ロバート・ウォルポールなど――を描いたものであり、真の狙いが下層の追い剥ぎと同じような悪徳に染まっていながら罰を免れている上層の諷刺にあることは、誰でも百も承知であったらしい。その誰でもとっくりと知っていて口にする必要のない隠されていた深層が乞食によって一瞬露わになるわけだが、それはすぐさまダンスによってぴっちりと封印されてしまう。

『乞食オペラ』を下敷きにしている佐藤亜紀『金の仔牛』でも薄皮が剥がされて下にあるものが垣間見える瞬間がないだろうか。ある。アルノーとニコルの結婚式がそれだ。
お仕舞いだ、世界は壊れちまった、とルノーダンは心中密かに嘆く。(P208『金の仔牛』)
では世界が壊れたとはどういうことか。

金持ちとは前近代まででは領地を持っている人間のことだった。近代では私有生産手段を持っている人間のことだった。近代以後では金融商品を持っている人間のことである。そして近代以後にはそれまでの時代と決定的な違いがある。それは富が実体的な基盤を失っているということである。農業生産物や工業製品と違って、金融商品には実体的な価値がない。株券などはただの紙切れである。そしてその紙切れの価値も、その株券を発行している企業の業績に支えられているわけではない。極論すれば業績など全くなくてもよい。その株が上がると考えている人間がいれば、より正確には上がると考えている人間がいると考えている人間がいれば、そして下がる前に自分は売り払えると考えている人間がいれば、業績は最悪であったとしても株価は上がるのである。

そして『金の仔牛』の世界は、実体論的な価値から遊離した関係論的な価値によって成立している近代以後(ポスト・モダン)の世界なのである。

『金の仔牛』は前近代に属する時代設定である。実際のミシシッピ会社の事件を扱っているとはいえ、いきなり実体論的な価値の世界から関係論的な価値の世界へ跳び移るのはアナクロニズムではないか。たぶんそうなのだろう。恐らくここには前近代と近代以後を接続する作者の意図的なアナクロニズムがある。
ゴデは未来の市場を思い描く。株券? 紙幣? そんなものは不要だ。どちらも紙切れ、価値を乗せるために不器用に持ち出された重い乗り物に過ぎない。一切の重さを持たない数字と数字だけが遣り取りされる、そんな光景を、何世紀も早くこの世に見せてやろう。(P252『金の仔牛』)
このアナクロニズムが作品のダイナミズムを生み出しているのだ。

自分の娘を追い剥ぎなぞにやれるか、と怒った故買屋の親父が何とか二人の仲を裂こうとするのが、『乞食オペラ』と『金の仔牛』に共通する話の筋である。だが共通するのはここまでだ。『乞食オペラ』では、故買屋ピーチャムも看守長ロキットも自分の娘に手を出した若造を問答無用でひっ捕まえて牢屋にぶち込んで縛り首にすることができた。オペラのお約束(のパロディ)で未遂に終わってしまうが。『金の仔牛』では、自分の娘に手を出された故買屋ルノーダンも、自分の愛人(予定)に手を出されたオーヴィリエ公爵も、若造を問答無用で縛り首にすることはできない。

この差は何に由来するのか。

『乞食オペラ』の時代設定は発表された1728年とほぼ同年代と考えてよい。対する『金の仔牛』の時代設定は1719、1720年。時代ではなさそうだ。イギリスとフランスの違いだろうか。しかしフランスはかの悪名高き封印書簡(拘禁令状)の国である。

この差は先程述べたアナクロニズムに由来するのである。

『乞食オペラ』は上層と下層の明確な区別を前提としていた。ジョン・ゲイにはそれは動かしがたい確固たる上下関係であり、だからこそ、その区別が曖昧になりかけている状況に危機感を覚えたのだろう。訳者あとがきではこう解説されている。
もちろんゲイは自己の時代を越えた人間ではなかった。盟友スウィフトは「相互服従について」(一七四四)や「貧民の知足について」(一七六二)といった説教文で、階級制度が社会秩序の維持に欠くべからざることを説き、上流階級は下層階級を庇護し、彼らの模範とならなければならないと述べたが、これはそのままゲイ自身の階級観でもあった。(P173『乞食オペラ』)
だが『金の仔牛』は時代こそ『乞食オペラ』と共有していながら、そのような確固たる上層下層の区別は共有していない。
二人の結婚式は盛大を極める。既に教会からルノーダンは居心地が悪い。別段気後れするというわけではない。全く逆だ。相手が名乗る度、ルノーダンは困惑を押し隠すのに苦労する。これはまた派手に着飾った山師もいたもんだと感心した相手が立派な称号を名乗ったり、その堂々たる押し出しに、こんな昔風の立派なお殿様が一体何故株屋風情の結婚式にと訝しむと、それが一際熱心に、十二月のアルノーの買い支えがいかに無謀だったかを語り始めたりもする。さてはこれも株屋か、おれの目も曇ったもんだと嘆いていると、いやあのかたは由緒正しい貴族の生まれで、と別の誰かが教えてくれる。アルノーと同じくらいの阿呆面を曝した証人の若造がラ・フェール伯爵と呼ばれているのはどうやら本当らしいし、ニコルが親しげにルノーと呼ぶカトルメールとかいう怪体な名前の男は、宮中に出入りしていても不思議はないくらいのお偉方に見えるのに、これがアルノーを寄越して紙幣に月利で五割といういかがわしい商売を持ち掛けさせた元締めなのだという。証人の署名を見たルノーダンは、これは何かの悪巫山戯に違いないと考える。故買屋の娘と追い剥ぎの結婚の証人に、かくも麗々しい名前が並ぶとは一体どういうことだ。(P207、208『金の仔牛』)
ミシシッピ会社という18世紀のバブルを媒介にして、前近代と近代以後を接続することによって、『金の仔牛』は前近代の時代設定でありながら、その作品世界の論理は近代以後のものとなっている。となるとルノーダンもオーヴィリエも、憎たらしい若造を縛り首にするためには、前近代の論理ではなく近代以後の論理に従うしかない。

だがルノーダン、オーヴィリエが近代以後の申し子であるアルノーに勝てるわけがない。ルノーダンとオーヴィリエはいまだ実体論的な価値にしがみついているのだ。
株は紙切れだ。値打ちは零だ。(P172『金の仔牛』)
カトルメールにとっては紙切れは零だからこそ無限の価値を持つということに注意しよう。
条件はいつもと一緒だ。銀にして返せ
紙切れは受け取らん。(P173『金の仔牛』)
銀は紙切れである紙幣と違って貴金属としての実体的な価値を持つ。

そしてオーヴィリエは己の領地を持った領主なのだ。

家庭における長と社会的な地位における長、この二人の家父長――上層に属する地位である――は実体論的な価値を象徴する人物なのである。追い剥ぎから成り上がって億万長者の株屋になり摂政公殿下にお目通りを許された――上層と下層の区別があやふやなものになっていなければできない芸当である――アルノーが関係論的な価値を象徴する人物であるのとは対照的に。

『乞食オペラ』では前近代の父親らしくピーチャムもロキットも家父長としての権限を用いて有無を言わさず娘と恋人の仲を引き裂くことができた。『金の仔牛』はそのような家父長の権限が、確固とした上層下層の区別が、それを支える実体論的な価値が、既に失われている近代以後の世界だ。

オーヴィリエがマンナイアを失って嘆いたのも道理だろう。ギロチンは近代の幕開けであるフランス革命を象徴する道具である。私有生産手段によって支えられた、ブルジョワジーとプロレタリアートという上下関係のはっきりした近代の世界は、そのような実体的な支えを失って上下関係があやふやになった近代以後の世界よりも、前近代に属するオーヴィリエにとって遥かに親しいものであるのだから。だがマンナイアは誰の首をはねることもなく――特に近代以後の申し子であるアルノーの首をはねそこねて――金貸したちに運び去られていく。近代は跳び越えられてしまった。

さて、アルノーとニコルの結婚によって、世界は壊れちまった、という事実を否応なしに突きつけられたルノーダンだが、壊れた世界をそのままにしておくのだろうか。いや、世界を元通りにしようとするのである。
見てろ、全部ぶっ潰してやる。(P278、279『金の仔牛』)
地下納骨堂にあるゴデのもぐりの市場――何世紀も早くこの世に現れた株式市場――を潰そうと、オーヴィリエと蜥蜴を送り込むのだ。そして送り込まれた蜥蜴は、売って買ってという敵方の手口をそっくり真似することによって、もぐり市場に止めを刺すことに成功するのである。

破綻したもぐり市場にやってきたオーヴィリエは気味が悪いくらい優しい声で言う。
ようやくこの世に然るべき秩序が戻って来たにすぎん。喜ぶべきことだ。(P281『金の仔牛』)
ルノーダンも言う。
そういういけ好かない喋り方はいい加減にするんだな。もう終わりだ。そういうのは全部終わったんだよ。お殿様がお見えになったら、丁寧に頭を下げて、お返しする金がありません申し訳ございませんと謝るんだ。そうしたらおれがその成り上がって成り下がった、いとも卑しきケツを持ってやる。お偉い公爵様を虚仮にして無事に済むと思ってた南瓜頭のケツをな。(P285『金の仔牛』)
世界は元通りになった。

が、元通りになったのは束の間のことに過ぎなかった。ニコルの助力によってアルノーは無事金を返し、オーヴィリエは這々の体で叩き出されることになる。自分の首にかけられた賞金を運び出しながら。ルノーダンの勝利は近代以後の価値観を体現するアルノーに対するものではなく、自分と同じ前近代の価値観を体現するオーヴィリエに対するものだ。ルノーダンはアルノーのピストルを突きつけて自分自身を追い払ったのである。自分の前近代の部分を、といおうか。お内儀の「惚れ直したよ」という言葉は苦く響いたに違いない。派手な癲狂院に詰め込まれた瘋癲の群れの仲間入りをしたことを歓迎されたのだから。
あんなもんは全部あぶくだ。いんちきだ。いんちきの紙といんちきの紙を取り替えて拵えたもんだ。見せ金さえいんちきだ。
そう言ったら、あいつはそれを金貨にでも銀貨にでも替えてきただろうね。いつもみたいにさ。諦めな。(P207『金の仔牛』)
我々が生きているのはいんちきの世界だが、そのいんちきが現実なのである。いい加減諦めるしかないだろう。

そして大団円のハッピーエンドによって、薄皮は再び下にあるものを覆い隠し、ぴっちりと封印するのである。

『乞食オペラ』でマックヒースは処刑される前に追い剥ぎ仲間に願いを託す。
おれの最後の願いだが、諸君が奴らに吊されるまえに、こちらから先手を打って、奴らを絞首台送りにしてくれないか。そうすりゃ、おれは安心して目をつぶることができるんだ。(P137『乞食オペラ』)
『金の仔牛』でも相変わらず上層の人間は下層の人間と同じく悪徳に染まっている。
物騒な連中だ、とアルノーは考える。これじゃ押し入りや追い剥ぎと何も変わらない。(P214『金の仔牛』)
しかし既に述べた通り『金の仔牛』の世界では、上層の人間は確固とした地位に安んじることはできない。罪を犯せばそれ相応の報いを受けることになる。居酒屋で仲買人を刺し殺して株券を奪ったオルン伯は処刑される。オーヴィリエも裏社会のはなった殺し屋に始末されるだろう。上層の人間も下層の人間と同じように罰を受ける世界。マックヒースの願いが叶ったようだ。だがマックヒースも実体的な支えを失うことによって、世界の確固とした区分自体が崩れてしまうこと、「世界は壊れちまった」ことは想像していなかったかもしれない。
誰のことも、別に怖くない。身分があろうとなかろうと、金持ちだろうと文無しだろうと、堅気だろうとやくざだろうと、怖いとは思わない。どうせ誰も彼もおんなじだ。(P256『金の仔牛』)
 マックヒースは安心して目をつぶることができただろうか。


引用は下記によった。

佐藤亜紀『金の仔牛』(講談社、2012)
ジョン・ゲイ『乞食オペラ 新装版』(海保眞夫訳、法政大学出版局、2006)