2017/03/24

佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』

ナチスドイツはある種の近代美術を退廃芸術として弾圧した。弾圧されたのは表現主義や新即物主義などの様式に属する作品である。これらの作品の特徴として、写実的立体的に描くという伝統的なスタイルを敢えて取らず、非写実的平面的に描き、戦争や死といった主題を扱った点を挙げることができる。ナチスドイツはこれらの前衛的な作品を病的なものとして弾圧し、多くの国民もそれに同調した。多くの国民にとって、美術とは美しいものを美しく描くものだからである。退廃芸術として弾圧されたオットー・ディクスは、崇高な戦場の英雄ではなく、戦場でボロ雑巾のように死んでいく兵士をボロ雑巾のまま描いた。多くの国民にとってこのような現実は見たくないものだった。人が惨たらしい傷口から思わず目を背けてしまうように、彼らもまた目を背けたのだ。目を背けても傷はそこにあるのだが。ナチスドイツはこのような国民の感情と手を取り合って退廃芸術を弾圧し、写実的立体的に美しいものを美しく描いた作品を称揚した。傷口から目を背けるために、傷口の上を甘く軽やかに覆い隠す癒やしの芸術を必要としたのだ。大ドイツ芸術と呼ばれる作品群がそれである。退廃芸術と大ドイツ芸術という二つの様式があるのだ。退廃芸術は条理が失われた不安定な世界の芸術であり、大ドイツ芸術は条理のある安定した世界の芸術である。

この『スウィングしなけりゃ意味がない』はジャズを主な題材に扱った作品である。ジャズの中にも二つの様式が認められる。それはエディとマックスが初めてジャズについて語り合う場面でもわかる。マックスはデューク・エリントンの「キャラバン」を人類史の偉業として賛美している。エディもそのイントロについて「ものっそい変な音」との感想を漏らし、今までにないという点では同意している。これは退廃音楽の様式に属するジャズである。一方、エディにとってジャズは「気持ちよく盛り上がれる」ものである。これは大ドイツ芸術に属する様式のジャズと言えよう。この様式のジャズの代表例として、この作品のタイトルになっているデューク・エリントンの「スウィングしなけりゃ意味がない」を挙げることができるだろう。ジャズに必要なのはノリノリのグルーヴ感ということを歌い上げたジャズの永遠のスタンダード・ナンバー。リズムを聴くと自然に体が揺れ始める。それこそがジャズだ!退廃音楽に属する「キャラバン」のイントロのデューク・エリントンと、大ドイツ芸術に属する「スウィングしなけりゃ意味がない」のデューク・エリントンの、二人のデューク・エリントンがいるのだ。

ここで注意しておかなければならないのは、この二つの違いは様式の違いであり、それは優劣を意味しないということだ。退廃芸術は高尚な優れた芸術であり、大ドイツ芸術は低俗な劣った芸術というわけではない。これらは様式の違いであり、様式を生み出す世界観の違いである。マックスが退廃音楽を好み、エディが大ドイツ芸術を好んだのは、二人の音楽の才能の違いによるところよりも、二人の立場の違いによるところが大きい。八分の一ユダヤ人で両親を自動車事故で亡くしているマックスと裕福なナチ党員の息子であるエディの立場の違いなのだ。世界は不安定な側面をマックスに既に見せているが、エディにはまだ見せていない。彼にとって世界は安定したものである。

マックスは気持ちよく盛り上がれるジャズが上手く弾けない。それで弾けるようになるためにカフェへ行くようになる。カフェで演奏されるのは大ドイツ芸術の方のジャズである。ナチスドイツは音楽を効果的に用いた。党大会では爆音により聴衆の一体感を作り出した。ドイツの学生もユーゲントの団歌を声を揃えて斉唱し、「おいち、にい。おいち、にい」と行進した。音楽は民族共同体の結束を強める効果的な手法なのである。ジャズも音楽である以上、無辜ではいられない。カフェでホットなジャズが演奏されると、客たちは「全員で気でも触れたみたいに両手を上げて叫び、拳を突き上げ、ステップを踏」む。「タイガー・ラグ」の演奏に合わせ全員同じ動きで応援する高校野球の応援席のように。拳を突き上げる動作。戦いの身振りだ。それを音楽に合わせて全員一致で。これは動員の音楽なのである。マックスに気持ちよく盛り上がれるジャズが上手く弾けなかったのは、彼が八分の一ユダヤ人だからだ。純粋なドイツ人ではない彼はドイツ民族共同体の一体感から弾かれてしまう。そんなマックスも、カフェでジャズの熱狂によって、スウィング・ユーゲントとの一体感に包まれているうちに、スウィング・ジャズが弾けるようになる。スウィング・ジャズの熱狂によって、スウィング・ユーゲント――ハンブルクのお偉方の子供たち――と一体化することで、八分の一ユダヤ人である彼もドイツ民族共同体に加わることができたのだ。

しかしその一体感は擬似的な仮初のものである。半分ユダヤ人である祖母の首吊りがそれを示している。ユダヤ人は国民国家によって財産を剥奪されゲットーに送られる「物」であり、やはりドイツ民族共同体からは弾かれる存在なのだ。誰がユダヤ人かを決めるのはナチによる「科学的」な人種観である以上、たとえユダヤ人でなくともユダヤ人の血を引いているだけで既に安全とは言えない。マックスは大管区指導者の家でワーグナーを演奏し民族共同体の一員に擬態する。

だがマックスの本気はそこにはない。マックスが本気になったことがある。「雨の庭」を弾いた時だ。エディに言わせるとドビュッシーをスウィングさせた最高にホットなリズムだったはずだが、誰も踊らなかった。これは全員一致で拳を突き上げ躍らせる動員の音楽ではない。「雨の庭」を演奏した時は北海からの水が町に押し寄せていた。マックスが自動車事故で両親を失った時に一人流されていったあの北海である。この「雨の庭」は死の音楽なのだ。大ドイツ芸術ではなく退廃音楽の様式に属する音楽なのである。マックスの本気の演奏は両親や祖母、そしてゲットーといった死へと繋がっている。

マックスは教会でオルガンを弾くようになる。そして希望があると信じることは大事だと考えるようにもなる。「喜びの島」のような恋の曲も弾く。恋の曲、大ドイツ芸術の様式に属する曲だ。「シテール島への巡礼」。マックスは安定した世界に復帰できる可能性を完全には捨て去っていない。不条理な世界を覆い隠し目を背ける大ドイツ芸術ではない。世界は不条理な場所だと承知の上で奏でられる、これは祈りの音楽である。エディのアプロディテは、デュークとともに国外へ去ったので、エディにシテール島が見えることはない。

ジャズには商業音楽としての側面もある。トンフォリエンを入手したスウィング・ユーゲントはラジオの録音から海賊盤を作る商売を始める。これは非常に上手く行く。儲かる。資本主義・消費文化としてのジャズだ。商品としてのジャズには退廃音楽よりも大ドイツ芸術の様式のジャズの方が向いているだろう。鑑賞者の美的感覚の更新を迫る退廃音楽よりも、もっと気楽に気持ち良く聴ける甘い軽やかな音楽の方が大勢には受ける。「セントルイス・ブルース」は「ザンクト・ルートヴィヒ・ゼレナーデ」とタイトルを変えて発売されヒットする。ブルースからセレナーデへ。黒人の魂の哀歌から恋の歌へ。デュークはルイ・アームストロングにちゃんと金を払えと言う。商品としての音楽なのだから金を払うことは重要である。金の問題が浮上してきたのだ。

レンク教授は西暦2000年の人間は今とは別な風に音楽を享受するだろうと語る。エディは父親にやりたいことを話す。自由に世界の音楽を流通させること。その仕掛け人になること。レコード、CDそしてmp3といった複製技術が商品として流通することによって、自分では演奏しないが音楽はよく聴く、といった鑑賞者が大量に出現した。中には演奏できなくとも膨大な知識と鍛えられた耳を持った鑑賞者もいるだろう。新しい音楽の享受の在り方が生まれたのだ。この作品はそんな音楽ビジネスの黎明期を取り扱っているのである。レンク教授は言う。愛好家というのは、演奏家と同じくらい、重要なものだからね、と。

スウィング・ユーゲントの一人であるニッキーが兵士に志願した。そこで追い出しパーティーを開くことになる。このパーティーのせいでエディは父親によってゲシュタポに売られることになる。父親がエディを売らざるを得ないほどゲシュタポがこのパーティーを問題視したのは何故か。それはトンフォリエンによる海賊盤によって、ジャズが既に資本主義・消費文化の商業音楽となっており、闇屋から仕入れた物資によってこのパーティーが豪勢な宴となったからである。これは資本主義・消費文化のパーティーなのだ。言わば小さなアメリカが出現したのである。「Don't shoot, G-Men! Don't shoot!」。ドイツの中にアメリカが出現したのだからゲシュタポも許すわけにはいかない。エディは鑑別所送りとなる。

エディはゲシュタポの取り調べの際、灰皿による一撃で頭にひどい傷を負う。爪も剥がれる。純粋なドイツ人であり裕福なナチ党員の父親を持つエディにとって、国民国家の暴力によって命の危険を感じさせられたのは、これが初めてであった。鑑別所では兵士に志願させるために拷問としての強制労働をさせられる。収容者に混じって。国民国家が人間から固有の「顔」を剥奪する、その当事者になることで、エディは祖国という牢獄から抜け出すことを考えるようになる。コール・ポーターの「夜も昼も」を口ずさむ。『コンチネンタル』(マーク・サンドリッチ、1934)で使われた音楽である。邦題は『コンチネンタル』だが、原題を直訳すると『陽気な離婚者』。エディは国民国家との離婚を考えているのだ。

エディが鑑別所から出る頃には仲間たちもそれぞれ国民国家との離婚を考えていた。収容者たちは民間企業で働かせられているので、ハンブルクの一般市民も目にすることになる。マックスも縞服を見る。彼にはそれが耐えられない。国民国家の暴力をこうあからさまに見せつけられては。クーも国との離婚を考えている。「シング・シング・シング」での熱狂を見たクーは、国より正しさの方が上だと考えて国を捨てる決意をする。この正しさはクーが語る自前のラジオ局によって実現するであろう正しさである。電話注文でお望みの曲を直にラジオに送り付ける自前のラジオ局。これには技術が足りないが、西暦2000年の人間にはインターネット技術がある。クーの夢はApple MusicやSpotifyといったサービスへ結実するだろう。録音再生技術、そして配信技術の発達によって、時と場所を選ばずに自由に聴きたい音楽を聴けるようにする、このような技術の変化は国や社会階層と結びついていた音楽の階級を破壊し、全ての音楽を並列的に、「サウンド」として聴取する姿勢を可能にするだろう(エディはこの話にビルが建つビジネスチャンスを見ている。音楽愛好家であるよりも資本主義者なのだ)。クーは「シング・シング・シング」の熱狂を見た。この熱狂の様子は動員の音楽を思わせる。しかし突き上げているのは拳ではなく両手である。この熱狂は戦争への動員ではない。そのようなイデオロギーが脱臭された「サウンド」を皆で消費しているだけである。20世紀後半のロックコンサートや21世紀のクラブでEDMを楽しむ観客のように。海賊盤商売によってレコードが出回ることにより、一部の範囲ではあるが「サウンド」の世界が出現したのだ。

彼らはUボートして本格的に海賊盤商売を始めようとする。その頃には「さまよえるオランダ人」というスウィングしない曲も聴けるようになっている。赤い帆に黒いマストの船。戦争が、死の影が迫ってきて、気持ちよく盛り上がれるスウィング・ジャズでそんな現実を覆い隠し通せなくなったのだ。兵士に取られて戦場に行くくらいなら潜伏生活をした方がましだ。国を捨ててさまよおう。しかしこの潜伏生活は闇屋の「上」がナチのお偉方と共犯関係にあるから続けられるものなのだ。Uボートはナチに対するレジスタンスではないのである。「さまよえるオランダ人」の作曲者であるワーグナーをナチはプロパガンダとして大いに利用した。

スウィング・ユーゲントのUボートの目論見は、ゲシュタポではなく連合軍によるハンブルク空襲によって潰される。ジャズを禁じた全体主義国家ではなくジャズ大国の民主主義国家による空襲によってハンブルク市民の虐殺が行われたのだ。そしてプロパガンダ音楽の「電撃戦坊や」である(エディはこの曲に消費文化を見出して、国民国家が資本主義によって崩壊する未来を見ている)。連合国も虐殺を行い音楽を戦争に利用する。国民国家である以上、ナチの同類なのだ。Uボートしてジャズの海賊盤を撒いたとしても、それはナチに対する本質的な抵抗にはならないだろう。ハンブルク空襲で町は大きな被害を受けたが、エディは失われた人命より、まだ海賊盤ビジネスを続けられるか、について検討する。筋金入りの資本主義者。

国民国家との離婚は不可能なのだろうか。

スウィング・ユーゲントはお偉方の保護者に守られていた。スウィング・ユーゲントがゲシュタポに補導されると、会社の経営者や弁護士、大学教授といった身分にある保護者がナチの党員バッジをひけらかしながら、ホルヒやメルセデス、あるいはマイバッハといった高級車でシュタットハウスに乗り付け、子供を引き取っていくのである。ナチの堅苦しい支配の中、ゲシュタポの目を逃れ、軽やかなスウィング・ジャズに熱狂するスウィング・ユーゲントの姿にナチに対するレジスタンスを見る者もいるかもしれない。この時代の閉塞感に自由の風穴を。しかしそんな彼らのレジスタンスはナチと共犯関係にあるお偉方の保護者によって可能となっていたのだ。スウィング・ユーゲントはナチの共犯者だったのである。

スウィング・ユーゲントの保護者たちは裕福な立場にあった。金持ちとナチが手を組んでいたのだ。いや、スウィング・ユーゲントの保護者だけではない。ハンブルクは軍需産業で栄えた都市である。ハンブルクそのものがナチと手を組んでいたのだ。港湾商業都市ハンブルクは国家社会主義ドイツ労働者党の共犯者なのである。資本主義と国民国家の結婚。ハンブルクは空襲によって戦場と化す。第一次世界大戦のイープルで「我が軍の英雄たち」がモツとミンチになったように、ハンブルク市民もモツとミンチの山となる。しかし無辜の民間人が虐殺されたわけではない。ハンブルクは町ごとナチの共犯者なのだ。ならば町が戦場と化すことも当然の成り行きではないだろうか。

首を吊るところまで追い詰められたマックスの祖母はナチの被害者である。だがマックスの祖母は人種観を持っており、それはナチの人種観と同じ論理構造をしていた。名家との結婚を重ねることで成り上がり濃度が薄くなる。アーリア人比率が高まるとユダヤ人濃度が薄くなるように。マックスの祖母の「人」とナチの「人」は同じものではない。しかし人種観によって誰が人であり誰が人でないかを決めるという点ではマックスの祖母とナチは同じなのである。ナチは古い人種観を科学的、近代的、先進的(とナチが称する)ものにした。ナチの人種観を準備したという意味ではマックスの祖母もナチの共犯者である。国民国家では誰もが国民国家の共犯者なのだ。共犯関係はこの作品の隅々まで張り巡らされている。誰も無辜ではいられない。

資本主義と国民国家は共犯関係にあった。この作品の最初から。金持ちの保護者がナチの党員バッジをひけらかしながらゲシュタポに補導されたスウィング・ユーゲントを迎えに来たことからもそれは明らかであろう。しかしこの共犯関係にも綻びが見えてくる。エディはベーレンス一家が「退去」させられるのを見て、ユダヤ人差別に反対していた。それは全ての人間に基本的人権が認められるべきと考えているからではなく、「得」ではないからだ。ユダヤ人を差別するよりも自由に働かせて富を生み出させ税金を納めさせる方が国にとって得だ。これは鑑別所での経験を経て更に強まる。エディは収容者が無意味にSSに殴り殺されるのを見て憤る。せっかくの安価な労働力を無駄にしたというわけだ。出所して、工場で働く収容者がSSに虐待されるのを見て、やはり憤りを覚える。もっと効率的に働かせるべきなのだ。人道的な配慮ではなく経済的な観点から、エディはSSに賄賂を贈り、縞服の待遇を改善する。エディにとってこれは「ただの金の話」だ。

『シンドラーのリスト』(スティーブン・スピルバーグ、1993)をこの作品と結びつけて考える読者もいるだろう。実際「靴墨」などの言及がある。オスカー・シンドラーは琺瑯工場を買い取り、そこでユダヤ人を働かせる。ポーランド人より賃金が安いという理由で。最初はユダヤ人をただの労働力としか見ていなかったシンドラーであったが、ユダヤ人会計士イザック・シュターンが同胞を助けているうちに、そしてアーモン・ゲートの非人道的な振る舞いを目にするうちに、自分もユダヤ人を助けるようになっていく。あくまで労働力として必要だから、自分が儲けるためだ、という建前を維持しながら。琺瑯工場が閉鎖されることになるが、その頃には充分に金は貯まっている。彼は死の運命が待っているユダヤ人たちと別れて故郷へ戻ろうとする。だがその前に彼は見てしまっているのである。ユダヤ人の死体がただの物としてナチに燃やされている中で、いつか見た赤い服の少女の死体を。モノクロ映像の中に突如現れるパートカラーの赤は、オスカー・シンドラーのみならず鑑賞者にも鮮烈な印象を与えるであろう。彼にとってユダヤ人の死体はただの物ではなく、「あの」少女の死体であり、固有の顔を持った人間の死なのである。『シンドラーのリスト』は、スピルバーグが登場人物のユダヤ人の「顔」を一人ひとり丁寧に捉えていくことにより、オスカー・シンドラーに、そして我々鑑賞者に、ユダヤ人をただの物や労働力としてではなく、人間として認識させる映画なのである。強制収容所に連行されかけたシュターンを間一髪で救い出した時に、シュターンの心配ではなく工場の心配をしてみせシュターンを唖然とさせたシンドラーが、シュターンと酒を酌み交わし、自分の財産を使い果たすことになってまでユダヤ人を救い、最後にはもっと救えたはずなのにと崩折れるのである。彼にとってユダヤ人がナチに殺されるのは既に「ただの金の話」ではなくなっている。彼が見たのは固有の顔を持った人間の死だからである。だがエディが見たものはモツとミンチの山である。シンドラーのように魂が芽生えることはない。

エディにも収容者がSSに暴力を振るわれる時に、人間を人間ではなくするものに抵抗する「名残り」はあった。しかしそれは空襲によって人間がモツとミンチに変えられることで完全に捨て去られることになる。元収容者のルカスとエッピンガーのボクシング。エゴン・シーレの裸体を想起させられるかのような、もはや人間ではない人間、動く死体が、古典的な均整を誇るアーリア人の肉体に勝利する。エディたちのキャバレーの内装は退廃芸術によるものである。世界は既に条理を失ったのだ。不条理な世界には不条理な世界観から生み出される退廃芸術がふさわしい。しかし流れる音楽は気持ちよく盛り上がれるジャズである。不条理を覆い隠しているのだ。これはナチにとっても都合がいい。キャバレーには高位のSSも訪れ、ジャズを楽しんでいる。戦争の惨禍を覆い隠し、安定した世界という幻想で酔い潰れさせるには、スウィング・ジャズはもってこいだ。

スウィング・ジャズが流行した1930年代は世界恐慌によって世界がどん底に落ち込んでいた時代である。世界恐慌の悲惨から目をそらすために人びとは甘い癒やしのジャズを必要とした。『有頂天時代』(ジョージ・スティーヴンス、1936)はどこまでも明るい「素敵なロマンス」だ。主人公のラッキーが文無しでニューヨークに出てくるところに世界恐慌の影響を感じることはできるが、ラッキーはギャンブルによってあっという間に一財産作ってしまう。恋のライバルも結婚相手を盗られたというのに祝福してくれる。この不自然で強引とも思える結末によって、世界の不条理はぴっちりと封印されてしまう。主人公が顔を黒塗りにして踊るシーンがある。しかしそれは楽しいショーダンスだ。ビリー・ホリデイの「奇妙な果実」、黒人が木に吊るされている――首吊りしたマックスの祖母のように――という歌で人種差別を告発した「黒人とユダヤ人」の退廃音楽ではない。世界恐慌の悲惨はそこにあった。だがそれを表現するのではなく、どこまでも明るく楽しい映画でそれを覆い隠した。『有頂天時代』は大ドイツ芸術に属する様式なのである。

この映画で歌われた「ピック・ユアセルフ・アップ」が『ブレイキング・バッド』(ヴィンス・ギリガン、2008-2013)で効果的に使われていたことを思い出そう。「2分間で10人」の場面である。『有頂天時代』はエディの両親のお気に入りの映画であり、エディの母親は「ピック・ユアセルフ・アップ」を頻繁に口ずさんでいた。「2分間で10人」はモラルを一つずつ踏み越えてどんどん悪くなっていったウォルター・ホワイトの到達点である。10人を殺害するという非道を犯すというのに、ウォルター・ホワイトは冷徹に時間を計るのみ。資本主義の論理に従って、障害を排除するために効率的で確実な手段を取った、というだけの話だからだ。クレイジー8を絞殺した時にあったような「名残り」はない。資本主義の世界では、人命を尊ぶことが善なのではない、利益を追求することが善なのだ。エディの母親が「ピック・ユアセルフ・アップ」を口ずさんでエディに見せていた世界は、ウォルター・ホワイトが生きたモラルのない、いや、利益の追求こそがモラルとなった資本主義の世界なのである。

エディの便宜上の婚約者のアディは医学生と反戦チラシを撒いて逮捕される。アディはエディのことを犯罪王(リトル・シーザー)と呼ぶ。『犯罪王リコ』(マービン・ルロイ、1936)だ。田舎のチンピラのリコは都会に出てギャングとして成り上がる。彼が成り上がるのは金のためではない。大勢の人間を思い通りに動かす地位が欲しいのだ。高価なタイピンや指輪、立派な屋敷も彼は求めるが、それは大ギャングの地位を示すアトリビュートとしてである。エディのことを犯罪王(リトル・シーザー)と呼ぶアディが、エディに求めたものは、大勢の人間を思い通りに動かす力なのだ。エディは奢侈品のつもりで毛皮のコートを買い与えると言ったが、アディにとって毛皮のコートは、犯罪王(リトル・シーザー)の情婦の地位を示すアトリビュートであって、奢侈品ではない。資本主義者のエディとでは望みを果たせないと悟ったアディは医学生と反戦チラシを撒く方を選ぶ。若者をオルグして思い通りに動かすことを選んだのである。エディと叔父が判断したように、これはユーゲントの同種である。アディはナチの同類なのだ。エディがアディのことを嫌な女と言っていたのはナチの同類だからであり、便宜上の婚約者になっていたのは、資本主義とナチ的なものの結婚はいろいろ都合がいいからだ。だがアディは反戦チラシを撒き、ゲシュタポに逮捕される。エディはUボートさせようとするが、アディはそれを拒否する。Uボートは金による解決手段であるからだ。アディが求めたのは、金ではなく大勢を思い通りに動かす力なのである。

資本主義と国民国家の結婚は上手く行っていた。だが国民国家のイデオロギーが利益の追求の邪魔をする。国民国家は安価な労働力を資本主義に提供していた。しかしそれは国民国家によって無駄な消耗をさせられることになる。縞服は意味もなくSSに殴られ作業は止まり、殴り殺され労働力は減る。この取引は割に合わなくなってきた。ナチスドイツだけではない。連合国も墓地を執拗に焼こうとするなど非効率的な愚行を犯している。全体主義であれ民主主義であれ国民国家は資本主義のように利益の追求を原則にして動くことができないのである。資本主義のように戦争を事業と捉えることはできない。ランゲマルクの戦いでは精神と文化の優越を示そうとした。国民国家にとって戦争は事業ではない。

空襲によって焼け野原となったハンブルクだが、「人間」が滅ぼされ、動く死体しかいない死の都になっても金は回っている。全てを稼ぎの種にして港湾商業都市ハンブルクはあっという間に復活するのである。ただしそのためには国から金を引っ張ってこなければならない。叔父はこの仕事を上手くやってのける。元アカのインテリで資本主義が崩壊する未来を夢見ている叔父は、右と左の違いはあれどイデオロギーの人なのだ。エディもナチになる。本気のやつではなく十分わかった上で付き合ってやってるナチだ。だがナチを利用するためにナチのふりをしていただけのエディは、変態僚友長をはめる時に保険として撮ったユーゲントたちそっくりになる。フラッシュを焚かれて大慌て。ゲシュタポのパウルとフックスのようにペルヴィチンをぼりぼり齧ることにもなる。ナチのふりをしているうちに本気のナチのようになってしまうのだ。ただしマックスとクーは写真には写らない。この二人は民族共同体の一体感を生み出すホットなジャズではないクールな音楽を弾くレンク楽派なのだ。八分の一ユダヤ人と共産主義者の息子。

しかしそんな資本主義と国民国家の結婚にも終りが来る。国民国家に最後まで付き合っていては大損してしまう。戦争は事業なのだから負けるとなったら損切りして終わらせた方が得である。ハンブルクは国を見捨てて単独降伏し、一足先に戦争から抜け出してしまうのである。総統の破壊命令に背かせ町を救ったものは、人間性ではなく――それは空襲で粉微塵になった――町を壊されたら損をするイギリスの保険会社の仲介であった。資本主義が町を救ったのだ。

この作品は「解放」という美しい言葉で締められている。何からの解放か。国民国家からの解放である。「陽気な離婚」が成立したのだ。資本主義が利益の追求を徹底することによって国民国家を切り捨てたのだ。キャバレーには禁断の退廃音楽ヒンデミットが流れるが、ナチは酔い潰れて眠っていて聴くことはない。国民国家が自身の終焉に気付くのはまだ先になるだろう。

資本主義は完璧ではない。市場原理主義を神聖化し、「見えざる手」に全てを委ねた新自由主義は格差を助長し、新たな悲惨を生み出すことであろう。しかし資本主義は得にならない戦争はしないし、本土決戦で全員玉砕と言い出したりはしない。そんなの誰も得しないから。資本主義が国民国家を見捨てて国民国家が滅びるなら、これ幸いである。お国のために死んで来い、とはもう言われなくなるのだから。